生存確認と人生

いろいろ書きます

「家族も他人」という言葉の持つ意味について

こんにちは、akiwoccです。

今日のブログは常日頃から私が漠然と考え感じていたことを文章でまとめます。言葉狩りのような話でもあるので不愉快な表現があったらごめんなさい。

 

「家族も他人でしょ」

 

このフレーズについてどう感じるのが一般的なのだろうか?

多分、なんともいえぬ孤独感や寂しさに伴う冷たさのような何かを感じるだろう。

実際に私がこのフレーズを友達にぽろっと言った際に言われた言葉は「冷たいね」だ。そして最終的に「あなたもいつか家族が他人だと感じられなくなる日が来ると良いね」と言われたのだ。

 

でも私は""家族が他人だと感じられなくなる日""なんてこなくて良いと思ってる。

 

それは私の家庭環境が複雑だとか親と確執があるとかではなく、単純に私が彼らを個別の人間として扱う気持ちが強いからかもしれない。

 

私は両親と姉と妹がいるが、家族仲は至って良好で貧困や暴力に晒されたこともなくどちらかというと恵まれている家庭だ。親は三姉妹の子供達をとても大切に育ててくれたし勉強ややりたい事は制限されたことがない。それは「やりたくないこと」でも同じであり、親に「勉強しなさい」「偏差値の高い学校に行きなさい」「いい子でいなさい」などは一切言われたことがない。勉強もやりたくなければやらなくていいのだ。法律に違反してたり誰かに迷惑をかけていない限りは、""何をしてもしなくてもいい""という行動の自由があった。

しかし夏休みの宿題や習い事のピアノなどは「宿題の締め切りを破ったりしたら先生の仕事の予定が狂って大変だし、ピアノも全然練習しないで弾けないと教えてくれる先生に迷惑がかかるからしっかりやりなさい」と言われた。

だが「ピアノの習い事へ通うのも志望校の選択もあなたの人生の決定だから好きにしなさい」、と言われ続けた。

何かをする自由だけではなく何かをしない自由がある家庭だったのだ。

この考え方は一種の個人主義なのかもしれない。大抵の人は個人主義と聞くと「人を気にしないで好きなことだけやっている生き方」みたいなイメージを持ちがちだが、それは利己主義の間違いである。真の個人主義とは「自分で自分の全ての責任を持つ生き方」なのだ。そして、この個人主義のように私は親や周りの大人が私に対する全ての責任を持つ人生ではなく自分が自分に対する責任を持つ人生を歩むように育てられた。

 

これが冒頭の「家族も他人でしょ」に繋がる。

 

自分で自分の人生に責任を持つからこそ、家族だろうが友達だろうが他の人の人生に責任を持つことは出来ないししない……そういう考えが私の根本にはあるのだ。

だから家族は他人であり、家族が他人でなくなる日というのは私の中で私が彼らを支配してしまう日を指してしまう。それはペットや着せ替え人形と同じ存在にしてしまうということだ。もしくは自分とまったく同じ思考や感情を持つ人間=自分のクローンのようなものだと考えるようになる日。

家族は血がつながっている特別な存在だが、自分のクローンではない。同じ時間を多く過ごして同じ物を着て同じ親から生まれた姉妹だとしても私は彼女達の考えていることを「知ること」はできても理解することはできない。言葉の意味上での理解、というと理解していることになるかもしれないが私がいう理解とは「感情やその考えまでの道筋」である。私はそれらの面では彼女達のことを全くと言っていいほど理解してないしそもそも理解などできない。親でも同じだ。私は父と母のことを知っているが理解は出来ないのだ。そしてそれは他の家族も私に同じことを考え思っているだろうと「知っている」。

 

そもそもどんなに深い仲の人だろうと相手のことを理解しているなど傲慢な考えだと思う。

「美しい薔薇」と聞いて全く同じものを想像する人はいるだろうか?ある人は真っ赤な咲き誇った大輪の薔薇をイメージするかもしれないが、またある人は真っ白な汚れなどない上品な咲き方をしている薔薇をイメージするかもしれない。もしくは淡く色づいた咲き始めたばかりの薔薇かもしれない。つまり、人の物事の感性や考え方はまったく一寸狂わず同じものなどないのである。

「汚い部屋」という言葉にも本当にゴミが溢れたカビだらけの部屋を想像する人もいれば服や本などのものが散らかったごちゃごちゃした部屋を想像する人もいるのかもしれない。身近な例でいうと、子供が母親に「部屋を掃除しなさい!」と怒られ「全然綺麗じゃん!」と言い換えするようなシーンの時も子供と母親の「汚い」というイメージやレベルが別だということがわかるはずだ。

 

つまり、人の感性や考えはそもそも理解などできるものではなく""理解できる""などというよく使われる言葉は「知っている」のレベルで終わっているのだ。

 

なのに、多くの人は「理解している」という寛大で優しいように聞こえる言葉に隠された無意識の傲慢を相手に振りかざしていることがある。

 

こういった傲慢の振りかざしが行われているシーンを見ると、相手の一面を見て自分の生きてきた世界の常識へカテゴライズすることで「理解している」とはなんなのだろうか?と、その不躾さに怒りすら湧いてくる。

 

私の「家族も他人」という言葉はいくら血のつながりのある関係でも「理解はできない」、つまり「相手への傲慢を振りかざさない」という気持ちも隠れている。他人である私が理解できないからこそ思考の自由や行動の自由を尊重するのだ。子供は親の所有物ではないし親は子供の理解者でもない。それは逆も然りだ。親には子供に一定の生活をさせる義務と権利を持っているが、所有する権利はない。子供も親にそれらの義務と権利を求めることはできるが、依存する権利はない。子供は酷い扱いをされたら親を捨ててもいいし親は子供が働かなくてお金をせびってきたら捨ててもいいのだ。だが「家族」という関係がある以上、理解するしないの話とは別の軸の話として「お互いのためにお互いを思いやり支える」ことは必要不可欠なのだと思う。

 

冒頭に出てくる友達も悪気があって言ったわけがないのはわかっているが「理解し合うことが理想の形」という友達の考えに私は奇妙さを感じた。そして必死に説明したものも「本当の理解」はされることなく「友達の人生観に当てはめた理解」をされたのだ。私の思考というモノを溶かして固めて彼女(友達)の思考という形にしただけの行為である。まったくの別物の完成だ。

 

私は家族が理解できないし他人だと思うのは彼らへの一種の敬意があるかだ。

彼らが何かを決断しても優しくも厳しくもアドバイスはするが人格への否定的な傷つけるような言葉をかけることはしない。それが私の敬意であり最高の家族孝行である。

 

色々と書いたが、つまりは家族は血という有形のものと愛という無形のもので繋がった個人の塊であり各自が自分の人生に責任を持つべきである。そして私にとって家族を「理解している」ということは彼らの個性を勝手に自分に当てはめているだけの行為な気がして奇妙な気がするので「理解していない」自分を知っている……というスタンスで生きてるだけだ。そうして、各自の人生の責任と理解していないという認識は最大の家族への尊重だと私は考えている。

 

 

しかしこの他人や理解できないなどのフレーズはなかなかの重い負のイメージが強いので、別の伝わりやすくラフな印象の言葉がを探している……